後期の苦闘、そしてドラフトでの悔しさ
――そんな北米遠征を終えて、約1か月後の後期がスタート。ただ、この後期は福永投手にとって苦しいシーズンとなりました。今振り返ると、その要因はどこにあると考えますか?
福永 「1年間投げる体力」が足らなかったと思います。身体の開きが早かったり、下半身が粘れていなかったり、肩が疲れていたり、腕が振れなくて、思っているコースにボールがいかない。スライダーもイメージしたボールにならず苦しみました。
――ただ9月になって、その答えを少し見い出せた印象はあります。
福永 8月は全く自分を見失っていました。8月18日・野村球場での愛媛マンダリンパイレーツ戦では、はじめて5回も投げられずK.O。
そこから1週間はローテーションのメニューをこなすことは止めて、1人でひたすら2時間から3時間、金光大阪高校時代以来となるポール間をランニングしながら、今までの自分を見つめ直し、振り返って少しずつ持ち直して、9月は前期には及ばないまでもストレート・スライダー共に戻ってきた感じです。
中島 輝士さん(監督)からは「一生走っとけ!」と言われましたが、今になってみれば「もう一度自分を見つめなおせ」という解釈だと思っています。
――野球でよく言われる鉄則に「心技体」がありますが、現代野球ではともすると「技術体心」になる傾向が強くなっています。でも、そんな日々を通じて「心」の大切さを思い出せたことはよかったですね。
福永 はい。自分でも当時は前期と違い一番大事な時期に結果を出せないことに焦っていたところで、自分を振り返れたことはよかったです。そのお陰でシーズン後、宮崎でのフェニックスリーグでも自分としてはいい状態のまま終えることができました。
データがないことは差し引いても、巨人の大田 泰示選手(現:北海道日本ハムファイターズ)や、北海道日本ハムファイターズの若手選手たちに自分のストレートで勝負できたことは自信を持てた部分です。
――そしてドラフト会議当日を迎えます。結果は指名がなく終わりました。
福永 待っている間は長かったです。そしてドラフト会議が終わった瞬間「これで(僕の)野球自体が終わったのかな」と思いました。
徳島インディゴソックス2年目へ「変わるための」挑戦
――ただ、福永投手は2016年、再びNPBへチャレンジする道を選択しました。
福永 転機はドラフト直後にナゴヤ球場で行われた四国アイランドリーグplus選抜と中日ドラゴンズの交流戦でした。
僕自身、気持ちの整理がつかなかった部分もありましたが、一軍の主力選手もいる中で開き直って投げることができ、ネット裏のスカウトの皆さんから評価も頂いたことで「もう1年」という気持ちになれたんです。
――こうして大卒選手との勝負になる徳島インディゴソックス2年目へのオフを過ごします。
福永 田中 正義選手(創価大4年・福岡ソフトバンクホークス1位指名)などの同世代との競争は強く意識しました。ですから昨年11月からずっと大事な夏場に勝負できるように、オフは投げ込み、走り込みをして「投げる体力」を付けることを心がけました。
かつ「NPBに入団した翌年から活躍する」力を付けないとドラフトでも本指名には入れない。左打者のひざ元へいかに投げ込むかをテーマにしました。体幹についてもキープ系と重いものを持つのを交互に入れることに取り組みました。
――そこに気付けたことはよかったですね。
福永 はい。周囲にインパクトを与えなくてはいけない。キレを求めつつ、最速152キロだった1年目からの球速アップなど、目に見えて解る数字にもこだわるようにしました。シーズンに向かって筋肉量を増やしながら体重も絞りましたし、2年目なので同じ失敗はできないですし、レベルを上げた中で色々なことを試そうとしました。
食事もオフは18時までに炭水化物は摂り切って、あとは野菜と鶏肉。最初はキツかったですが、そのうち慣れましたね。
――ちなみに50メートル走のタイムも上がったそうで。
福永 50メートル6秒2から6秒0になりました。これまでのことを続けては現状維持のままなので。「大きく変えなくては何も変わらない」。他にも投球時の角度、クイックでのタイム短縮など様々なことに挑戦しました。
それも四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックスでないと感じられなかったこと。自分の野球に対する技術・考え方を広げてくれたことに感謝しながら、ドラフト指名で恩返しすることを誓って、2016年シーズンに入りました。
かくして一時は野球を続けるべきか悩みながらも、固まった「覚悟」を持って進むことになった2016年・徳島インディゴソックスでの2年目。第3回では「浪速の剛腕王子」の称号を背負って阪神タイガースドラフト6巡目指名を受けるまでの波瀾万丈と、再び赴いた北米遠征での秘話・ターニングポイントについて語ります。